nanohanarun’s diary

気ままなブログ、エッセイ等書いています。

うの華3 49

 お前血相を変えて、何処へ行くんだい。夫は慌てた様に尋ねた。何処って、妻は言い淀んだ。

「一寸気になる事が有りましてね。」

落ちついた声だったが、夫はそれとなく思い当たって妻を引き止めた。

「一寸じゃ無いんだろう。」

 流石に夫は長く連れ添った妻の性格を把握していた。このまま彼女を行かせると家内で揉め事が持ち上がると察していた。そこで一言「止めなさい」と妻を輸した。妻の方は、でも…と悪びれた雰囲気でやや口を尖らせたが、その場に留まり、俯くと上目で夫をちらりと見て黙った。妻の方も、こんな風に夫が自分を制する状態に慣れていた。彼女はジロジロと夫の顔色を窺い、その後ろめたそうな雰囲気を彼の背後に嗅ぎ付けると、

「お父さん、何かなさりましたね。」

と、半ば断定的に尋ねてみた。夫はにまりと照れくさそうな笑いをその顔に浮かべた。いやぁ…と、曖昧な言葉を発する彼に、ははぁんと妻は内心合点した。

 やはり、夫はあの辞書の事で何かしでかしたのだ。だからあれが四郎の所に移動したのだ。成程と彼女は頷くと余裕の笑みを浮かべた。

「何処か破かれたんですか?。」

そう言って彼女は、まぁ、あれも私同様古くなりましたからね、さぞやぞんざいに扱われたんでしょうね。と、声音はいかにも穏やかで優しい妻に、夫は赤面すると、ち、違うよと、狼狽え気味に答えた。

 それから、彼は妻の様子を控えめに眺めて、少々考える気配で間を置くと

「まぁ、確かに端の方に皺を寄せたり、折り目など付けた場所もあるがな。」

と、小さく言った。それも随分昔のことだよ。ほれ、お前に謝った時が有っただろう。あの時だけだよ。あれも、随分お前が目くじらを立てて怒ったものだから、それ以降は十二分に気を使って、お前同様大切にあの辞書は扱って来たものさ。

「それはお前も知っているんだろう。」

夫が微笑んでそう言うと、妻もほのぼのと微笑んで、分かっていますよ、お父さんを一寸揶揄っただけですよ。と答えるのだった。